詳細は公式サイトをごらんアレ。
>>「時をかける少女」
見に行った感想は、ごく単純に「見入ってしまいました!」
誰が「面白い」とか「感動した」とかありきたりな言葉を第一声にしてやるものか。
原作は読まなかった。
たぶん、筒井康隆氏の小説は思い切りはまれるのだ。そういうタチですから。
だから、ほぼ読まなかった。これはわざとなのだ。
七瀬のシリーズを一冊か二冊読んで、間違いなく直感が正しいと悟った。
大変な量の積読本が生まれてしまうという直感もある。
いつか、大人買いしてしまう気がする。
映画を見に行く前に南雲師がいろいろと教えてくれようとしていたのだが出来る限り聞かない様にする。当然ブログにも情報が載っているし……しまった、と思いつつブログ閲覧は最近の新しい趣味なので一通り読んでしまった次第。
基本的に、ブログで映像情報を文字情報のみに置き換えるのは難しいらしい。
百聞は一見に如かず。
よって、このブログにおける情報もまた似たようなことになるのだろうか。
映像は、よく動いている。
これが何を示しているのか。
十分に優れた制作集団は、会社という形ではなくても結集できる、ということ。
どこにCGがあったか、というのはわりと簡単に判別が付きそうではあるのだ。妙な違和感を与える映像が流れているところ、それはCGである。だけれど、それはわざと残しているように思えた。
昔でいうところのセルを重ねての撮影手法と、CGのレイヤーとは非常に似ている存在であり、撮影レベルや仕上げ処理が先じてコンピュータに置き換わった理由もわかるというものだ。
上記の流れから、違和感のある映像は、「わざと違和感を残した」と考えられる。セルとレイヤーは似ている。それがアナログなのか、デジタルなのかの違いといったところか。
その違和感は、単純に主役「紺野真琴」が感じているままを描いているのかもしれないが、それが観ているものも巻き込むしっかりとした映像になっていると感じた。
ちなみに、どう見入ってしまうのか。
野球好きである三人組の微妙な関係と、その自然なやり取りがいいのだ。
「自転車通学」「坂道のある難所」といった要素は、ごく偶然、私の通学していた風景と合致していたし、川沿いの道というのも通学ルート選択によって可能であった。そして、ブレーキが壊れて電車に突っ込むことも可能だったのだ。(そういう伝説的逸話のある高校だった)これは例外的な話ではあるが。
町の風景、つまるところ美術あるいは背景と呼ばれている背景レイヤーと、脇役あるいはモブと呼ばれているレイヤーと、そして主役たちのレイヤーとがまったく違和感なく繋がっている。
ちゃんと一つのスクリーンで繋がっている。
うっかりすると、全部がバラバラになって訳のわからなくなるアニメーションにおいて、ここまでしっかり繋がっているのは、見ていて気持ちがいいし、何より「そこにいる脇役の自分」という感覚を無意識に与えてくれる。
(上映終了間際に「紺野真琴」が自転車の二人乗り一組に横を通り過ぎられたが、あれは「紺野真琴」自身である可能性を提示していたことも含めて、強い既視感を与えると同時に、「紺野真琴」自身も傍観者の一人というレイヤーを与えた瞬間にも見えた)
些細なことからいじめが始まるというのも、高校生活ではありがちな話である。それに対して思いのほかしっかり抵抗している彼はなかなか根性が入っている。どこかで曲がっているが。
進路を決めなければならない、といういきなり人生が変わってしまうような選択を迫られるのも高校生ならではだろう。ちなみに、私ならば理系を選択したが、それが正しかったかどうか未だに自信がない。人生は、たぶん、その決定を迫られた瞬間にはとても重要な要素なのだが、それ以後は結局やり方次第である。
男二人に挟まれた「紺野真琴」はどちらを選ぶか、あるいはどちらも選ばない、という選択に常に挟まれる訳だが、それもまたずっと先延ばしにしようとする心理はわかる。挟まれる位置の三角関係はついぞ経験がほとんどないので、そのストレスたるや想像するしかない。
そういう常に微妙な関係が存在できるのも、大人になりきれない年頃である高校生時代ではないだろうか。
勝手に尾道だと考えていたのだが、都内が舞台であるらしくどうやらそこにある風景の探索が可能であるらしい。やらないけど。
推定、下北沢などの下町。川は多摩川だろうか。あるいは多摩地区をずっと西に行けば坂が大量に出てくるだろうか?(パンフレットにはそれらの取材についてが記述されていた)
「坂」と「川」という要素もまた、日本ではありきたりな風景である。もちろん、無い地域も結構あるのだが、平野部が少ないのでわりと「坂」と「川」を見る機会は多い。
そこにいるような気がする。
高校生の日常と、時を飛べるという非日常が織り成す映画。
演出面のチェックが出来ないままに、動きや仕草で「見せる」という特徴が見えた。その仕草はとても自然で、セリフなどによる掛け合いとあいまって、ぐいぐいと見せ付けてくれる。
青春時代を思い出しつつ、泣き(かけること二回ほど)、笑い(三回ぐらいか)、上映終了とともに精神的なエネルギーやパワーが十分に蓄えられたことを知る。
いい映画だ。